No.04

襷(たすき)

「谷口さん、レポートまとめてみたんですがちょっと数値が良くなくて……。見てもらえますか?」

「ありがとう!どのデータからそう思いました?」

「えっと……。たぶんこのあたりのキーワードの数値を見ていたと思うんですけど……」

「本当ですね。あ〜セグメントをもう少し細かく切り分けて見たほうがいいかも。ほらこのあたり、数値がバラついてるから固まりごとにデータをまとめてみてもらえますか?」

「なるほど……!ありがとうございます」

後輩の田中さんと話していると、その様子を見かけた取締役の林さんが近づいてくる。

「谷口さん、またご紹介で受注したんだって?」

「そうなんです。おかげさまで!」

林さんは私の元上司だ。気づけば林さんに言われてきたのと同じようなことを、いま田中さんに伝えている。


——3年前。


広告運用チームは崖っぷちだった。とはいえ、新卒2年目の私に緊迫感はなく、言われた仕事をこなす日々を送っていた。

広告運用チームに異動してからは1年と少し。最初に配属されたセールスチームがことごとく向かず、異動を希望したのがこのチームだった。新入社員研修で少し話を聞いて面白そうだったのが理由で、知識があったわけではない。想像通りの部分と想像と違った部分のどちらもあるが、私に向かないセールスの仕事よりはずっといい。なんだか日に日に、大きな案件を獲得できない広告運用チームに向けられる視線がヒリついているように感じるけれど、私がどうこうできる話ではない。先月、チームのマネージャーとして林さんが転職してきたし、状況が変わっていくかもしれない。まだ同じ案件を担当したことはないが、気さくに話しかけてくれて、私が抱えている案件の相談に乗ってくれる上司だ。前の会社でもずっと広告運用をしていたらしく、わからないことはなんでもすぐに聞くようにしている。そんなことを考えていると、林さんが近づいてきた。

「谷口さん、新しく決まった引越しサービスのEightyさんの運用を一緒にやってもらいたくて。少し時間をもらえますか?」

「もちろんです」

話を聞くと、いままでにない大きな案件だった。この規模の広告運用は、セールスチームとともにプレゼンに臨むも他社に負けた話を立て続けに耳にしていた。そんな中で取れた案件。社内の空気感と林さんの口ぶりからも、期待がかかるプロジェクトだというのは私にもわかる。この案件でしっかりと実績を出して証明できなければ、開きかけた道はまた閉ざされてしまうだろう。少しの不安を感じながらも、大きな案件に関われることへの楽しみが心をふわふわと浮き上がらせる。いま振り返ると、この頃の私は頭もふわふわしていてあまり緊張感がなかった。PMは林さんだし、私は言われたことをやろうという感じだったと思う。

そんな心意気で迎えた先方との打ち合わせの日。日中でもそこそこ人が溢れる銀座線に乗り込むと、車体の揺れに合わせて吊り革を握る手に力が入る。林さんは社内で見るときと目つきが違い、打ち合わせへのスイッチがすでに入っているようだったが、いつもと変わらぬ口ぶりで業務の話を振ってくれる。

駅を出て5分歩くとガラス張りのビルにたどり着く。受付で林さんが瀬戸さんという担当者を呼ぶと、椅子に腰掛けるよう促された。大きなアートが飾られたエントランスに無音の時間がずっしりと流れる。受付の奥に並ぶトロフィーや盾を静かに眺めていると、軽快に靴を鳴らす音が近づいてくる。ドアが開いた瞬間にそれまで保っていた空気の均衡が歪み、私はバランスを取るように勢いよく立ち上がった。こちらに近づいてくる人は、私と目が合うと顎をこくんと揺らして林さんへと目線を戻す。林さんと瀬戸さんはすでにプレゼンで顔を合わせていた。

「お待たせいたしました。ご足労いただきありがとうございます」

「お世話になります!よろしくお願いします」

「よろしくお願いいたします!」

滑り込むように声を重ねた。会議室へ通されると私だけが名刺交換をする。名刺のデザインと会議室のインテリアに触れると、林さんが「素敵ですよね」と乗っかってくれた。

打ち合わせが始まると空気はすっと締まる。瀬戸さんが自社で運用してきたこれまでの成果やキーワードを共有し、林さんが解像度を高める質問を投げかけ、今後の道筋をディスカッションしていく。事業全体の方針と具体的な打ち手の行き来を追いかけながらも、私は話に入っていけるほど理解が深くない。抑えるべきポイントがわからず、目の前を通り過ぎる言葉のほぼすべてをメモする。指はキーボードを叩き続けるが、意識は話の内容から遠ざかり、林さんの経験と知識の豊富さに距離を感じていた。緊張感がありつつもテンポよく進んだ打ち合わせは、毎週木曜日の15時から定例会議を行うことが決まり終了する。ドアの向こうまで私たちを送ってくれた瀬戸さんは、やはり私と目を合わせて顎をこくんと揺らしたあと、林さんの目を見て「では、引き続きよろしくお願いします」と頭を下げた。

自動ドアが開いた瞬間、新鮮な空気が髪をふわりと持ち上げる。駅までの短い5分の間、林さんはまとめておいてほしいデータを流れるように話し、私はスマホにメモしながら歩いた。オフィスに戻ると、4ページにわたる議事録を送る。それから帰り道にとったメモをパソコンで開き、上から順に言われた通りのデータを出していく。数字は大きいものの、指定された条件でレポートを出す作業はいつもと同じだ。一つ、また一つとチェックリストを潰していく。

林さんは私が作成したレポートを受け取ると鋭い目つきに変わった。「このキーワードはあまり取れてないね」「こっちは取れてるけど予算あたってないな〜」と口にしながら改善策を浮かべていく。

「うん、やっぱりそうだな。こっちを下げてこっちを上げてくれる?」

「わかりました」

私は林さんが組み立てた通りに広告配信を設定していく。毎日データを確認して動きが気になったときには報告し、林さんが話す修正を私が反映するのを6日間続ける。そしてまた銀座線に揺られ、大きなアートが待つ受付に向かい、林さんが1週間の報告をして先方とディスカッションし、私は静かにメモをとり続ける。オフィスに戻ると長い議事録を送り、林さんが組み立てた改善を反映する。そんな1週間のルーティンがまわり始めた。

私にとっては変わり映えのない1週間の繰り返しだが、林さんにとっては違った。代表の相原さんは、普段プロジェクトの状況を細かく確認するタイプではないが、よく林さんのところに来ては「Eightyの件、どう?」と言っている。さらには「Eightyで成果が出なかったら、うちで広告運用をやっていくのは無理かな」と伝えているのを聞いてしまった。同じ案件を担当している感覚が薄れてしまうほど、林さんには大きなプレッシャーがかかってる。私にできることは、とにかく指定されたデータを出すことしかない。

3か月が経つ頃。この案件を聞いたときに嬉しくて浮き上がっていた心は、いつの間にか元の位置に戻り、元のリズムを刻んでいた。その間に林さんの戦略で数値はぐんと良くなっていた。最近は相原さんが声をかけに来る様子もないし、一山を超えたのだろう。私はプレッシャーがなかったぶん喜びもなく、空気のように変わりなくルーティンをまわしていた。いつも通りデータをまとめて林さんに伝えにいく。

「このあたりがあまり良くなさそうです」

「どうしたらいいと思う?」

どうしたら……? 私が考えるの?

「えぇ、ん〜」

何も出てくるはずがない。林さんはそんな私を見透かしているような目で、広告管理画面を開き始める。

「どこを見て良くないと思った?」

「えっと、30代女性のデータを見ていたらこの広告グループが当たっていなそうで……」

「うんうん、本当だね。それに気づいてどう思った?」

「改善が必要だなと……」

林さんは、画面を見ながら続けた。

「このあたりの関心は20代と共通すると仮定してたけど、30代はこの辺の広告グループの方が当たっているね。ということは、ちょっとニーズがズレている可能性がある。重点的にキーワードをもう少し細かく見てまとめてもらって、他の媒体も見直してもらえる?」

「わかりました」

言われた通りに追加のデータをまとめていく。これまでも追加でデータを出すことはあったが、とにかく林さんに指定されたデータを言われた通りにまとめていた。でも、ぼんやり仮説を浮かべているとデータの見え方がいつもと違う。林さんから細かく指定されずとも、次に見るべきキーワードへとマウスが自然に向かっていた。これまで断片的に出していたデータを少しまとめて出せた気がする。この日から少しずつ林さんと私のやりとりが変わっていった。

「今日のデータです。このあたりがちょっとやばそうで」

「ありがとう。どうしたらいいと思う?」

そこまではわからない……。林さんはそんな私をまたも見透かしているような目で見ていた。

「ここを踏み込めるようにならないと、成長は見えないよ」

口調はいつも通りだが熱がこもっている。自分の瞳が揺れているのを感じた。

「すみません」

咄嗟に謝罪の言葉がこぼれ落ちる。その瞬間に何かが私の中で動いた気がして、林さんが見ているデータをいつもより細かく追いかけ、出てくる言葉に耳を傾けた。

それから何度も同じようなことを言われながら、林さんのやり方を見て少しずつデータの出し方を変えていった。キーワードの分析は一つずつ見ていくのではなく、自分なりに意味合いを定義づけて分類し、条件ごとにデータ出しと考察をしていく。データのまとめ方もフォーマット自体を改良していった。自分で考えながら数値を見ているうちに、より予算をかけるべきポイントと減らすべきポイントがなんとなく見えてくる。仮説のまとめも提出するようになっていった。ここ3か月は、空気のように過ごした最初の3か月と同じ期間とは思えないほど早く流れた。

Eightyのプロジェクトが始まって半年。定例会議で林さんが話す週次レポートに、私がまとめたデータや分析がかなり盛り込まれるようになっていた。さらに最近は他のプロジェクトにもアサインされて仕事の幅も広がっている。Eightyの成果が良好だったために、それを聞きつけた別の企業から相談がくるようになってきたのだ。最近は毎週のルーティンをまわしながら、別のプロジェクトの動きも林さんと話すようになっている。

「林さん、イノベイトテックの数値なんですがちょっと動きが変わっていて」

「あ、僕もちょうどいま見てたとこ。この辺だよね〜」

林さんが見つめる画面を覗いた瞬間、口角が少し上がってしまった。映し出されていたのは、以前Eightyの分析で私が作成したフォーマットだ。ちゃんと前に進めていたんだと初めて思えて、その日は帰りにいつもよりいいビールを買った。

それから間もなく、Eightyの定例会議で提出する週次レポートをすべて私が作成することになった。定例会議までの1週間は短く、あっという間に前日になる。最初のうちは順調に書けていたレポートも次第にスピードが落ちていった。毎週水曜日の17時にはレポート作成時間としてカレンダーをブロックしているが、他の案件の追加作業があったり、構成が浮かばずに後回しにしたりしているうちに時間は押していく。どんどん重たく感じる作業になっていき、1か月半が経つ頃には20時に画面を見つめているようになっていた。オフィスはところどころ暗く、灯りの下にポツリポツリと人がいる。私を照らす照明は同時に林さんも照らしていた。林さんは新規案件の作業をしながら、時折り声をかけてくれる。

「谷口さん、どうー?」

「まとめと分析はできたんですが、提案パートで行き詰まっていて」

「そこまでいい感じだね。例えばこの辺の改善も盛り込むと、先週の内容との繋がりが明確になりそうかもね」

「あ〜なるほど!ありがとうございます」

助けてもらいながら作業を続け、気づけば22時半を過ぎている。オフィスには私と林さんだけになっていた。

「そろそろ帰ろうか〜。今どんな感じ?」

「あとちょっとな気がするんですが……」

「そうだね。明日の朝一緒にまとめていこう」

長い水曜日は毎週続いた。いいレポートを出したい思いが強くなるほど、荷が重くなっていく。プロジェクト開始3か月で成果が出たからこそ、そこから難易度はどんどん上がっていき、数値に波が出てきていた。定例会での瀬戸さんの声色はあたたかな日もあれば冷たい日も出てきているし、銀座線で見る林さんの横顔は晴れている日もあれば曇っている日もある。


そんな中で追い討ちをかけるように緊急事態宣言が出された。会社はリモートワークになり、各所と調整の連絡が飛び交う。Eightyからも全社的に予算整理が入ると連絡があり、プロジェクトが始まって以来初めて定例会議がストップした。林さんと相原さんは「解約もありえるかもしれない」とチャットでやり取りしている。Eightyを見て引越しを検討する人が増えるのか減るのかもわからない。別の案件も次々と止まり、マネージャー陣は今後の調整に追われていた。ニュースをつけるとオリンピックでさえやるかやらないかと議論が飛び交っている。これからどうなってしまうのだろう。私は手元の仕事が止まって空いた時間に、広告運用に関する記事や本を読み、今後の世の中の動向予想に目を通しながら過ごした。

そんな日々が2週間ほど続き、打ち切りになる案件も出ていたなか、Eightyは予算が縮小するものの継続の知らせが来た。表情は見えないが、文面から林さんもホッとしている感じがする。定例会議はオンラインになり、1週間のルーティンが再開した。

安堵したのも束の間、限られた予算で成果を出していくのは至難だった。これまでの運用である程度の信頼を得ているぶん期待値は高い。オフィスで細かくコミュニケーションをとっていた林さんともチャットを中心にやり取りするようになり、これまでなら聞いていたであろうちょっとしたことは、自分で調べたり考えたりして答えを出すようにした。なんとか仕上げた定例会用のレポートを林さんに送ると、すぐに「ありがとう!」と返ってきた。

翌日。画面上で顔を合わせた瀬戸さんは、部屋の照明のせいか表情が暗く見え、カメラの位置のせいか目が合わない感じがする。「よろしくお願いします。音声は聞こえていますでしょうか?」と顎をコクンと揺らす声は低い。調整された予算で成果を出さなければならないのはまず瀬戸さんで、重圧を感じているように見える。

そんなクライアントさんを勝たせるのが私たちの仕事だ。林さんと連絡を取り合い、オンラインで画面共有をしながらディスカッションを重ね、また一から分析し打ち手を考えていく。世間のあらゆることが変化したため、データの動きは当然これまで通りにいかない。誰にもわからない未曾有の事態の中で、仮説を立て最善の道を選んでいく必要がある。

「この予算感だと、この2つの媒体は削るのが得策だね」

「そうですね。設定しておきます。残す媒体の中でもセグメント別でみたときにこの辺りは抑えたほうがいいかと。この前こんな記事を見つけたんです」

「お、いいね。ありがとう。じゃあ追加で詳細なデータ出してもらえる?ここも絞りつつ、注力する場所をもっと絞って施策を考えよう」

こうして練り上げた分析と提案をまとめる水曜の21時。部屋で一人作業を続けると、より終わりが遠く感じる。しんとした夜に飲み込まれそうになりながら、なんとかレポートを完成させたのは日付が変わる直前だった。林さんに送るとすぐに「ありがとう!」と返ってきた。

霧の中を進むような日々の中、できる限り歩き回っては手を伸ばし、掴めるだけのものを毎週定例会に持っていく。それでも瀬戸さんの表情が晴れることはない。再開して4週目の定例会。いつものように私が作ったレポートを元に林さんが話し始めると、瀬戸さんは一つひとつ突き刺すように疑問や否定を投げかける。

言葉に詰まる林さんを初めて見た。私は込み上げてくる涙を抑えきれず、画面から外れた。次の涙がどんどん押し寄せてくる。悔しい。これだけ力を尽くしても期待を超えられない。悔しさに、私が作ったレポートで林さんが詰められている申し訳なさが重なる。思いが強くなるほど涙は次々と押し寄せる。瀬戸さんに気づかれていたかわからないが、私は何も言われず何かを話すこともなく会議を終えた。

定例会議の後はオンラインで林さんと打ち合わせの時間だ。2人しか映らない画面では、より目が潤んでいるのがわかりやすい。林さんは繋がるなり「泣きたいのはこっちだよ〜」と困ったように笑いながら言う。いつもと変わらない口調に少し力が抜けつつも、申し訳なさと悔しさで再び目の奥が熱を帯びた。こぼれ落ちるように「すみません」と言うと、「この状況だから難しいよね。どうするかな〜」と片手で頭を押さえている。林さんが打ち手にここまで困っている様子を見るのは初めてだ。それでも、もう片方の手と瞳は何かを探すように動いている。画面共有をしながらポツリポツリと出すべきデータを話し始め、私はまた矢印を追いかけながらメモしていく。それから毎日データを見ては分析し、林さんと話しながら改善を重ねていった。

コロナ禍に劇的な突破口が見えないのと同じように、運用で成果を出すのも日々の地道な分析と改善を続けるほかない。来る日も来る日も頭を抱えながら霧の中を進んだ。レポートを作成する水曜日はだいたい夜遅くまで作業が続き、手が動かないまま明日が迫る焦りと、何度書いても苦戦している自分への悔しさに涙が溢れる。

そんな日々を重ねているうちに数値は少しずつ良くなっていった。定例会議の空気感も少し和らいでいるように感じていた木曜日。瀬戸さんが「難しい条件のなか尽力くださり、いつも本当に助かっています」と言ってくれた。オンライン会議の画面を閉じると、胸いっぱいの空気がふーっと吐き出されて力が抜けた。いつもより軽やかな気持ちで振り返りの会議へ繋ぎ直すと、林さんもいつもより力が抜けているように感じる。たくさん息の乗った「ひとまず、よかったね」の一言のあとは、いつも通りの振り返りと次の戦略へ話が移った。

「じゃあ一旦こんなところかな。次の定例会議ではLP周りの施策のところは谷口さんから話してもらえる?」

「え、私が話すんですか?」

「うん、ここは谷口さんが動いてくれてるからその方がいいよね。必要があればフォローするし」

「……頑張ります」

迎えた翌週の木曜日。自分が話す部分のシミュレーションを何度もして15時を迎えた。瀬戸さんは変わらない表情で聞き終えると質問を始める。画面上では誰を見て話しているかわからないが、口調からなんとなく林さんに問いかけている気がした。そう思っていた一瞬のうちに林さんが答え始める。そんな定例会議が続いていった。

3か月が経っても、上手く話せずにいた。なんとなく私が話した項目への質問は少ない気がするし、手応えがまったくない。質問には相変わらず林さんが答えている。分析は自分で考えられる部分がかなり増えていたものの、改善策についてはやはり林さんが考えている部分が大きい。定例会議に向けて林さんとオンラインで打ち合わせをしながらも、戦略はなかなか浮かばずにいた。

「ん〜戦略はやっぱりまだわからないですね。なんか定例会議でも上手く話せないんです。質問がきてもこういう方向性で考えてますっていうのが全然出てこなくて……」

「じゃあさ、次の定例会議から谷口さんが全部話そう。自分で話せば主体的な考えになってくるし、そっちのほうがいいと思う」

「え?全部ですか?絶対無理です」

「必要だったらフォローするし大丈夫。とりあえず次回やってみよ!」

今でさえ話せていないのに全部なんて絶対に無理だ。瀬戸さんをがっかりさせてしまうんじゃないか、クレームになるんじゃないか、むしろ1回で林さんに戻してくださいと言われるだろうな……というところまですぐに想像できた。1回だ、この1回だけ頑張ろう。私の至らなさに、林さんも諦めてくれるだろう。

迎えた木曜日の15時。嫌だ、とにかく嫌だという気持ちが肩にずしんと積もっていた。重たい頭を持ち上げて、定例会議用のURLをクリックする。接続中のぐるぐる回るサインをずっと回っていてほしい気持ちで眺めたが、いつも通りに繋がってしまう。息を多めに吸って話し始めたつもりなのに、細く時折り震える声が自分の部屋に響いた。瀬戸さんはいつもならコメントを挟むであろう場所でも頷くだけで、わずかな質問には林さんが答えて終わった。これは絶対に担当を変えるよう連絡がくるだろう。そう思いながら林さんとの振り返りに入ると、何事もなかったかのようにいつも通り進み、終わり際に「じゃあ、来週もよろしくね」と言われてしまった。何も思考が働かず、デスクトップをぼんやりと眺めた。

さすがに1か月も経てば何かしらの理由で林さんが話すように戻るだろうと思っていたが、2か月が過ぎても3か月が過ぎても、私が話していた。定例会議が終わるとだいたいの日は「今日もうまく話せなかった」とすぐに自分の中で反省会が始まるし、その程度が大きいときは林さんとのオンライン会議に泣きながら参加していた。それでもたまには「今日はいい感じだった」と思える日が出てきている。林さんに委ねていた質問への回答も、ここなら話せるなというところから自然と自分で答えるようになってきた。改善策や次の施策も自分で話しているうちに視野が広がっていき、前回はこの部分を話したから今回はここにフォーカスしようと次の道が自然と浮かんでくるようになった。それによって苦戦していたレポート作りも変わってきている。これまでは林さんが示した方向性に沿ってたたきを作り、最終判断は林さんにあるという意識だったが、自分が考えた施策がお客さんにとってどうなるのかを考えながら組み立てていく。だからこそ、定例会議で質問がきても考えてきたことをそのまま話せばいい場面が増えてきた。あれだけ話したくなかったのに、今はできるだけ自分で話したいと思っている。自分が考えてきたことを話すのも、質問に答えるのも楽しい。

半年後。定例会議を自分が話しながら進めるようになってからは、ガラリと違う日々を送っている。それまでも少しずつできる範囲が増えてきている感覚だったけど、なんだかんだずっと林さんに頼りきりで、私は安全地帯にいたのだと思う。今はやっとレポート作りもほとんど一人でやっているし、林さんが忙しいときは定例会議に一人で出席することも4、5回あった。林さんは最近「来月からはもう任せて僕は消えるから!」と冗談を言うほどだ。

翌月。林さんは「じゃあ今月からよろしく!何かあったら相談して。田中さんがアシスタントに入ってくれることになったからうまく連携してもらって」と言う。

「え、消えるって本当だったんですか?」

「え、そうだよ。もう僕がいなくてもやってるし、変わらないでしょ」

まさか本当にいなくなるなんて。でも、何かあれば林さんに連絡すれば大丈夫だろう。最近は成果も安定しているし、瀬戸さんと臆せず対等にやりとりできるようになったし。そんな心意気で新しい体制を整える。戦略をすべて私が考える代わりに、データのまとめや広告配信の設定は田中さんにお願いし、新しい1週間のルーティンが始まった。

3か月後。本当に林さんが定例会議に出ることはなくなったが、トラブルもなく順調にまわせていた。木曜15時。いつものようにオンライン会議に入室すると、心臓がドクンと大きな音を立てた。瀬戸さん以外に初めましての方が2人いる。

「突然ですみません。私が退職することになりまして、後任の木村とマネージャーの高橋を同席させていただいています」

瀬戸さんとはもう1年半以上の間、毎週顔を合わせている。築いてきた信頼関係がまた一からになる気がして、不安が襲いかかってきた。だが、そんな心配をよそに定例会議は最後までいつもと変わらず進んだ。大きく息を吐き次の施策の準備をしていると、メールが届く。


谷口様

先ほどはありがとうございました。Eightyの高橋です。
いただいた資料(3)の実際のキーワードの一覧と(5)の広告データをご共有いただけますでしょうか。

よろしくお願いいたします。


瀬戸さんからは来たことがない細やかなリクエストで、成果を出すのはもちろん、安心してもらえるコミュニケーションを取らなければと思った。

翌週。いつもより早めに準備を整えて心を沈める。定例会議にアクセスすると、高橋さんと木村さんが写し出された。緊張しつついつも通り話し始めると、高橋さんから瀬戸さんとは違った角度から細やかな質問がくる。話をしていると、高橋さんは長年広告運用をしているようだ。でも、うちで扱っているセオリーとは違うやり方で運用してきたようで、考え方がまったく違う。同じ目的を目指しているのに、通る道のりが違うのだ。当然、こちらの戦略を丁寧に説明する必要がある。

だけど、このやり取りはかなり難しかった。高橋さんは運用者としてベテランのため難しいところはわかってくださるが、知っている道があるぶん、知らない道を通ろうとするときに疑問が湧く。私なりに説明するが、共通認識の部分とそうでない部分が混在するため、高橋さんの頭の中を理解しきれず、説明が届かないときがある。その結果、これまで追ってきたのは最終の数値だけだったが、項目ごとに細かく設定されたKPIが送られてきた。自由度が少なくなったぶん、施策もこれまでと同じ考え方では細かい指標が達成できない。

できるようになったかと思えば、次の壁が現れる。頭を抱えながらも、まずはこのやり方で成果が出ることを証明し、信頼してもらうことが第一だ。とにかくやっていくしかない。

いま振り返れば不思議だが、あれだけ林さんを頼ることばかり考えていたのに、相談する選択肢すら浮かばなかった。毎日データに向き合いながら、改めて広告運用そのものについても広く学び直す。高橋さんの質問に的確に答えたい。

それでも質問に対する答えがパッとまとまらず「整理してお答えしたいので、持ち帰らせていただけますか?」と言う日もあり、悔しくて涙する回数がまた増えた。とにかく考え続けるしかない。画面と睨めっこしていると田中さんからチャットがきた。

田中「セグメントごとのデータ送ります!」

谷口「ありがとうございます!ん〜なるほど。ここらへんの詳細がほしいな!キーワードごとのデータもお願いできますか?」

田中「了解です!」

田中さんは前職でも広告運用のアシスタントをやっていたので、伝えたデータをすぐに出してくれた。私はどんどん作業を手放していき、戦略に時間をかけていく。

こうしているうちに、少しずつ少しずつ成果が上がっていった。高橋さんからの質問にもスムーズに答えられるようになり、最近はもう運用方針をほとんど任せてくださるようになった。

木曜日の15時。高橋さんと木村さん、そして田中さんと私。4分割された画面に繋がると、いつもよりにこやかな高橋さんがいた。

「おかげさまで、収益が会社の目標を上回りまして。この1年大変な状況のなかご尽力いただき、弊社の事業部の中でもトップとなりました!」

「ええ、本当ですか!」

「はい、谷口さんと田中さんのおかげで広告からの流入が好調です。私は他の事業部をみていくことになりましたので、来週から定例会議は木村が担当させていただきます」

気づけば、林さんが抜けてからの1年で数値はよりよくなっていた。あれだけ遠い存在だったのに、今は私のやり方で林さん以上の成果をあげられている。


プロジェクトが始まって3年。崖っぷちだった広告運用チームは今では会社の主力となりメンバーも増えている。Eightyはコロナ禍を超えて過去最高の売上になった。そして私はただただ言われた作業だけをこなしていたところから、自分主導で上司以上の結果を出せるようになった。そして今はまた新たな課題に田中さんと一緒に向き合っている。

「谷口さん、追加のデータできました!」

「ありがとう!このデータを見てどう思いました?」



Writer:平賀はつこ

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